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法門無尽 福井孝典ホームページ

12月

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│ FORUM2-7 第61号 12月2日(月) │
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 私が最近驚いたことは、あの巨人軍のビッグスター落合選手にしてもリストラはやってくるのだなあということです。彼の活躍は誰もが知っていますし実力の程も皆が認める所でしょう。どうして彼で無くて清原なのかは当然の疑問だと思います。42歳じゃなあという言葉も出てくるかもしれません。だけど、年だからどうだと言うのでしょう? 力が落ちている、使えないというのなら別です。しかしTVで見ていたでしょう? 立派なものです。若い選手に決して負けていません。スポーツは実力の世界ではないのでしょうか? オレ流が出て、チームに貢献しないという人がいるかもしれません。しかし本当にそうだったのでしょうか? 自分のコンデション作りは最後は自分で責任を持たなければならないんじゃないですか? 故障した時のリハビリを誰か一緒に分けもってくれるというんですか? その人なりのオレ流は誰もが持たなくてはならないんじゃないでしょうか。彼でなくて清原というのは、清原の方が使いやすそうだということだと思います。それに値段が割安ということ。これは高年齢者に対するリストラと全く同じ考え方に基づいているのだと思います。
三億円プレイヤーとサラリーマンとは違うという声もあるでしょう。それはそうです。一年で自分の一生分以上稼いでしまう人のことを同情しても始まらないという気もします。しかしその活躍・成績をずっと万人に注目され続けているスタープレイヤーにさえもこういう世間の風は吹いてくる訳です。社会とはこんなものだと得たり顔で言うことも出来ます。利潤を追求している会社組織に於いてさえ、業績よりも使い易さということで人事が決まることはあります。中高年の首が危ないのは当然だとうそぶくことも出来るでしょう。しかしそれこそ何処かで聞いた似非「会社教」のくだらぬ論理というものでしょう。
 落合より清原という決定を巨人ファンはどう感じるのでしょうか? 私は巨人ファンではありませんので、それを言うことは出来ません。逆に、野球は巨人軍ばかりじゃあるまいという気持ちがあります。各チームの四番ばかり集めてどうするのでしょう? ですから今回落合選手が巨人の中で飼い殺しにされるのではなく自由契約ということで外へ出たのは本当に喜ばしい決断だと思っています。きっと奥さんに大いに励まされているのでしょう。これからも二人で生き抜いて貰いたいものだと他人事ながら感じている次第であります。出来ればセリーグ(ベイスターズなら最高!)に残って巨人戦で大活躍をして欲しいものです。
と、こんなことをぼそぼそと呟いているうちに十二月、師走になってしまいました。お師匠さんが走るという月です。一年を振り返り、新しい年に向けて心構えを練る月です。
そういう訳で(どういう訳だ?)「餅をついて雑煮を食べる懇親会」を計画しました。夏に予定していた「水遊びと素麺を食べる懇親会」が出来なくなったことの代替えです。どうぞご参加ください。
これに関連して各ご家庭のお雑煮のレシピを是非お知らせいただけると幸いです。これは結構家によって違っている場合もあるようで、色々知ることによって又違った味を開拓出来るかもしれませんし、見聞を広められるかもしれません。よろしくお願いいたします。

    未来ひとつひとつに餅焼け膨れけり    大野林火


2年7組親と子の餅をついて雑煮を
 食べる懇親会のお知らせ
上記の集いを下記の要領で持ちたいと思いますので、参加・不参加の別 をお知らせください。
―― 省 略 ――


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│ FORUM2-7 第62号  12月5日(木) │
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 個人面談の日程を次のようにいたします。寄せられたご希望に沿った形で組んだつもりです。基本的には保護者と担任ということで考えておりますが、ご希望の方は生徒をまじえ、三者ということでも結構です。
―― 省 略 ――

先回話題にしました雑煮ですが、これについて家庭科教育で有名な矢島せい子先生は彼女の『くらしの歳時記』で次のように述べています。
 「雑煮には地方によってそれぞれ特色があって、関東のすまし汁風や、京都の白味噌仕立てなどと味付けがちがい、同じ味噌でも、赤味噌でなければという土地柄もあり、家々のしきたりもあります。
 雑煮の具も、野菜だけでなく必ず魚を入れる土地もあり、鮭の卵がはいった雑煮でなければといったり、雑煮に鰤はつきもので、西日本では鰤のない雑煮では正月にならないという人もいます。
 関東地方の雑煮は大根、里芋、にんじん、小松菜を煮て、醤油で味付けしたごった煮のすまし汁、つまり文字どおりの“雑煮”に切餅を焼いて入れますが、餅の焼きざましは固くなるので焼き手の主婦はどれだけの数を焼いたらよいのかと気をもみます。
    もういくつ食ると雑煮聞きあはせ   (川柳)
餅のかたちは、東日本はのし餅を小さく長方形に切った切餅、西日本は小さく丸めた丸餅で焼かずに煮て食べる人もいます。切餅と丸餅の境界線は日本列島の中部地方、日本アルプスあたりになるそうですが、東西の分布地帯のなかに思わぬ飛地があるのは、江戸時代の大名替えのおり、殿様が前領地の雑煮の作り方をそのままもちこんで移動したのではないかとの説があります。」(P9)

┌─わが家(福井家)のお雑煮───────────────────┐
│ 材料(4人分) 若鶏モモ肉1枚 ほうれん草1把 ごぼう1本 │
│       かつおぶし削り30g 昆布10cm 水6カップ │
│     @(塩 小1.1/3・醤油 小1) おもち8コ │
│ │
│ 1.鍋に水と昆布を入れ火にかけて煮立つと同時に昆布を引き上げる。│
│ 2.1に削り節を加え、火を止めて沈んだらすぐに濾し、一番だしを │
│  とる。 │
│ 3.鶏肉は一口大に切る。 │
│ 4.ごぼうはささがきにして水にさらし、アクをとる。 │
│ 5.ほうれん草はゆでて水にとり、4cm位の長さに切る。 │
│ 6.煮立てただし汁の中に3と4を入れ、再び煮立ったらアクをとり、│
│  @で調味する。 │
│ 7.軽く焼いておいたお餅を入れ、柔らかくなったら火を止める。 │
│ 8.ほうれん草を上に乗せる。 │
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 │FORUM2-7 第63号 12月7日(土) │
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組合の動員で横浜市三校種(小、中、盲・聾・養護学校)教育研究会に参加してきました。場所は紅葉坂の教育会館ホールで、内容は「海勢頭 豊コンサート」と映画「GAMA-月桃の花」の鑑賞です。海勢頭氏は沖縄のシンガーソングライターでこの映画の製作に携わり、主題歌をはじめその音楽担当をしています。主題歌「月桃」は次のような歌です。

   摩文仁の丘の 祈りの歌に 夏の真昼は青い空
誓いの言葉 今もあらたな ふるさとの夏
海はまぶしい 喜屋武の岬 寄せ来る波は変わらねど
変わる果てない 浮き世の情 ふるさとの夏
6月23日 待たず 月桃の花 散りました
   長い長い 煙たなびく ふるさとの夏

 今から十二年前、矢張り組合関係の仕事で沖縄を訪れた時の感慨が蘇って来ました。赤瓦の屋根、琉球石灰石の垣、サトウキビ畑、洞窟や数々の戦跡、米軍基地、慰霊の碑、それに独特な琉球音階による沖縄民謡、泡盛、豚料理、珊瑚礁に囲まれた青い海………。
 しかし何よりも印象に残ったのは沖縄県民の強い反戦意識、「命どぅ宝(命こそ宝)」という平和への希いでした。それはヤマトンチュー(本土者)には判らぬという程の強い意識であるようにも感じたのでした。
この「GAMA-月桃の花」という映画は“沖縄県民映画”とうたっているように、沖縄の人が沖縄の心で作った映画です。戦火に追われた沖縄の家庭の、母や子の悲鳴が50年経った今も消えず、人々の心に受け継がれているのです。コンサートの席上で海勢頭氏が語った「私達は戦争に繋がるもの、武力とか基地とかというものは要らないと思っている」という言葉には説得力がありました。最近の沖縄の世論の高まりも人々のそういう思いを表しているようです。
それは沖縄が日本で唯一地上戦を経験した所だという為でもありましょう。日米両軍の戦闘のまさにその戦場として沖縄全島が砲弾と銃火を浴び、殺戮の舞台となったこと、その為九万四千もの一般住民がほぼ同数の軍人犠牲者と共に死亡したのです。しかし更に重大な事実があります。それは沖縄に住む住民や家族が、戦場で大日本帝国の軍隊と向かい合ったということです。
それはどういう軍隊であったのでしょうか? 一言では言えないものもあることでしょう。沖縄戦を戦った或いはそこで戦死していった日本各地からの人々の思いも色々だったのでしょう。きっと多くの人はお国の為だと思って戦ったのかもしれません。しかし日本の帝国軍隊は、大陸や南方でアジア各地の人々が感じたのと同じ思いを沖縄の人々にも残したのです。同じ、信じられない程の犠牲を現実に強いたのでした。地を裂くような悲しみをたくさん運んで行ったのです。多分、人間の善良な気持ちとは全く違った恐ろしい現実がそこには存在したのです。
親や身近な者の強い思いは子々孫々に伝わって行くものだと思います。この映画では戦争によって破壊されていく家族の悲しみが描かれています。それは家族のうちに必ず戦争で死んだ者がいる、或いは一家丸ごと死んでしまったというケースも珍しくないと言われる沖縄の人々のベースになっている体験なのだと思います。
映画が終わり外へ出ると、辺りはもう暗くなっていました。遠い地平線に残る夕陽の帯の上の、小さく黒い富士山のシルエットを見ながら道を進むと、最近出来たばかりの能楽堂の立派な建物が左手にありました。右側は図書館で、窓の内側に本を読んでいる人の姿が見えます。すっかり冬らしくなった冷たい空気を呼吸しながらそのまま道沿いに進むと、紅葉坂のバス停に向かう石畳の坂道に出ました。その道の先の夜空にはランドマークの巨大な建物が聳えています。それは見るからに現代的で、何か新しいビジネスを満載しているようで、昔そこに船渠があり、カンカン虫と呼ばれる多くの職工達が油にまみれていたことなど思い起こしもしません。まして戦争前にそこで大きな争議があったことなど誰の記憶にも無いでしょう。争議の集会場にも使われた一号ドックは現在ドックヤードパークという名の憩いの場になって、レストランに囲まれているのです。
時代は流れ、街も国も人の心も変わって行きます。五十年前の沖縄の物語も遠い悪夢のようにも思われてきます。しかしあの時の沖縄を日本人は決して忘れてはならないのだと思います。日本の過去と未来を結ぶ架け橋、日本とアジア、日本と世界を結ぶ大きな教訓がそこに横たわっているような気がします。
 明日はあの太平洋戦争が始まった12月8日です。
 NO MORE WAR.


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│ FORUM2-7 第64号 12月11日(水) │
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 1996年も残り少なくなって来ましたので、生徒達にこの一年間の反省を書いて貰いました。皆それなりに書いていましたが、このFORUMには載せてくれるなというのが殆どでした。まあ、反省というのは自分が判っていれば良い訳で、他人に見せるものではないとは思いますが、載せないでと書いていなかった子の分を紹介してしまいます。人に見せてなんの恥じらいが有ろうぞという気持ちもグッドです。自分の不充分な所をもう少し緻密に指摘し、来年度への課題を鮮明にして行ければ尚良いかとも思います。載せないでとした生徒の中には各教科ごとに自分の達成度を点検していた子もいましたが、大体はこれと似たような感じでした。

(大井武人)この一年間は忙しかった。二年生になると後輩がいるので気を使った。特に10月~11月はテストも多くあるし、寒いし大変だった。来年はもっとゆっくりした年にしたい。
(遠崎みさき)一学期から成長していない所はあるけれど成長した所もあると思う。二学期というのは体育祭や文化祭などしかなく、二年生の行事では焼き芋大会位のことしかなかったけど、それなりに充実していた。ただ一学期よりも「忙しい」っていう感じがなかった。一年生の時は中学校での初めての二学期だったので、とても「忙しい」っていう実感があった。二年生になると、もっと忙しいと思っていたのにぜんぜん忙しくない感じだった。三学期は忙しくなりそうだが、その忙しさに流されず頑張っていきたい。
 (齋原信雄)今年は色々楽しい事がたくさんあった。例えば、夏休み、体育祭、遠足等。
しかも二年生ということで一年生の頃と比べてまるっきり違う生活を送ることが出来て、なんだか良い一年間であった。一年間というのはとても短いと僕には感じられた。僕はこの一年間に反省はないが感想ならあって、それはクラスで過ごしたことの楽しさや、クラスで力を合わせて行って賞などを取った喜びとか色々。ともかくこの一年間は良い一年間であった。来年もこういう風にしたい。
(鶴島由美)私が二年生になってからもう八ケ月が経ちました。色々なことがあったはずなのにとても早く感じます。中学校生活ももう半分が過ぎてしまいました。あともう四ケ月で二年生も終わってしまいますが、これからも色々なことに精一杯頑張っていきたいと思います。)
 (佐々野雄太)今年一年で自分自身、一番の変わり映えは勉強や普段の生活で物事に積極的に取り組むようになってきたことだと思います。その理由は、社会や英語、技術家庭科等の授業で進んで発言する回数が増えてきたことや、みんながあまりやらない仕事を率先して行うようになってきたからです。反対に今年一番頑張れなかったことは、これも勉強に関することだけど、家での勉強の中で苦手な教科の勉強を避けてしまったことです。来年の僕の目標は、苦手な所を克服し、今まで以上に物事に積極的に取り組むことです。
 (吉浦真奈美)一年生の時に比べて勉強が難しくなってきたけど二年生も楽しく一年過ごせました。体育祭は去年あまり参加できなかったけど今年はクラスに二つも賞が貰え、しかも盛り上がりました。文化祭は一生懸命歌えました。だから一年のうちの主な行事はとても印象深かったです。そして焼き芋大会。自分達で栽培したお芋をおいしく食べれてとても楽しかったです。たくさんの行事を一生懸命せいいっぱいやれたから、とてもその時その時を楽しめた良い一年間でした。
(田村塁)初めの方はあまりいいことがなかったので嫌だった。学校に来てもあまり調子が乗らなかった。家でもなんか年中ひまだった。部活は二年になってからほとんど出たので、まあまあ楽しかった。なんか物足りない一年だった。
 (渡瀬理恵)私は最初は友達になれるかなあとか色々不安を持っていたけど、慣れるにつれて、あぁいいクラスだなあと実感してきました。一番最初の日、先生が私の名前はなんでしょうと聞いた時、はっきし言って「ドキッ」としました。だから、私のインスピレーションからは、はきはきしたおもしろい先生に見えました。とても楽しいクラスでした。


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│FORUM2-7 第65号 12月16日(月) │
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 学校では個人面談が始まり、いよいよ年の暮れという感じですが、世間では厚生省や運輸省等の高級官僚の汚職問題が大きな話題になっています。容疑内容を聞くと、よくもまあこんな風に大きな利益を自分の方に誘導出来るもんだなあと腹立たしくなってきます。
現在社会科の授業は「近代国家へのあゆみ」と題する明治時代の章をやっていますが、明治の新政府は富国強兵の方針の下、完璧に官僚主導で日本の近代化を進めて来ました。戦争を進めた軍部というものも百パーセント上意下達の超官僚機構です。その官主導という体質は復興・高度成長経済の時期を含む戦後の日本にも引き継がれ、それがここへ来て大きな問題になっています。そういう訳で、明治以降の日本の正の部分・負の部分両面に渡って官僚機構の果たした役割は極めて大きく、その時代という文脈の中で正確に評価されなければならないと思います。今、霞ヶ関解体論がかなり大きな主張となっているのも現在の時代の要請です。
官僚組織の欲求や行動が国民の要求と乖離する時、その存在それ自体を問う程に疑問が出て来るのは当然かもしれません。ましてそれが一部特権幹部の私利私欲に繋がるものであれば尚更です。
ここで一つ問題にされなければならないのは官僚組織の非人間性です。エイズの問題でも汚職の問題でもそこで働く職員が全く知らないということはあり得ないでしょう。組織自身の防衛とか御身大切とかという事情が沈黙を余儀なくさせているのだと思います。ここに、特に日本のような歴史を持つ強大な官僚機構で働く者の危うさがあります。人間であれば当然上げる筈の声を圧殺してしまう力を、官僚組織は持っているのです。それが官僚組織の非人間性といわれる最大の所以だろうと思います。
教育という仕事も日本の国策の中で位置づけられ、極めて効果的に機能してきたものであることは事実です。公教育は文部省を頂点とする一つの官僚組織に於いて執行されているとも言えます。ですから、そうした機構の持ちやすい弊害にそのまま侵される場合も多いのです。現場で働く者は毎日直接子供達と接し、そのことを通じて親御さん達と接している訳です。飽くまでも教育はそういう人達の為にあるのだということを忘れず、人間としての感性を大切にし、やるべきことやってはいけないことを正しく判断しながら仕事を進めていきたいと思っています。それは人間らしい生き方ということにも繋がることだと思います。 


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│ FORUM2-7 第66号 12月18日(水) │
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 神奈川芸術フェスティバルということで県民ホールで公演されたチャイコフスキー記念東京バレエ団の「ベジャール=ストラヴィンスキー」を観ました。クリスマスも近いので家族で何処か良い所で食事をして何か観ようと思っている時に、互助会の企画にこれが出ていたので申し込んだのでした。しかし急に妻と長女がそれぞれにのっぴきならない用事が出来てしまったので、急遽その分下の娘の友達を連れて行くことになりました。
この作品は受験前の中学生を連れて行ったのはまずかったかなと少し思わせる程に衝撃的なものでした。今世紀初頭、ロシアの作曲家イーゴル・ストラヴィンスキーの登場が世界中に巻き起こしたセンセーショナルな感激を、フランスの振付家モーリス・ベジャールが「舞踏史を塗り替える」振り付けで甦らせた作品といわれているのもうなづけました。作品は「ペトリューシカ」「火の鳥」「春の祭典」で構成されています。その現代的な解釈は、人間の奥底の本質的な衝動・葛藤をダイナミックな様式によって表現していきます。あらゆる芸術作品の根底にはこうしたパトスが存在しているのだと思いますが、その極めて鋭い衝動が、高度な技量を伴う様式へと昇華していく舞台は迫力満点です。若々しいエネルギー、人間(生物)の根底をなす普遍的な官能、こうしたものを可能な限りの肉体表現で追求していきます。たけり狂った男性舞踏群が黄色い照明に向かって周囲に汗を吹き散らばせながら飛翔していく場面に代表される、この作品の躍動する数々の舞台芸術は確実に新しい舞踏を方向付けるものとなったであろうことを納得させます。
終わった後、娘の友達が「とても感動しました!」と言うのに、私は「びっくりしたねえ!」という言葉を返したので、話が続かなかったと後で娘に指摘されました。子供達には古典的な様式よりも却ってこの方がすんなりと入っていけたかもしれません。その昔、私が中学生だった時、映画「ウエストサイド物語」を観た時と似たような感動を得たのかもしれません。自分の幼い音楽劇(ミュージカル)のイメージを根本的に覆すような作品に、当時は理屈抜きに凄いと感じたものでした。
翌日の日曜日は薄曇りで少し風が吹いていました。その日私は久しぶりにヨットをしに行くことを決めていたのです。
三崎口から三戸浜までの広く広がった畑地一面に大根が出来上がっていました。三浦大根です。その畑の上を風が流れて行きます。
海岸では思った程には風が強くないように感じ、これならヨットを出せそうだと判断しました。艤装を済ませてから、ドライスーツを着込んで出艇しました。夏場とはちょうど逆の北ないし西の風です。帆を艇から直角近くに広げ、後ろから風を受けながらランニングで沖へ向かいました。風と波で艇は右に左にと横揺れします。風がどう吹いているのか今一不確かで、心許ない気持ちでいると、急に帆が殴りつけるように右の端から左の端へと頭上をワイルドジャイブして行きます。風が巻いているのです。沖に出ると、風の向きは安定してきましたがその強さは増し、濃い緑色の海に波も高くなっていました。
セイル(帆)を引き込みティラー(舵)をラフィングして風上に向かいます。前から吹き付ける強い風と矢張り前方から押し寄せる波で、思うような速度が出せません。波を越える度に艇はばたんばたんと上下し、風は帆をばたつかせ押し戻すような勢いさえ感じます。夏場とは感覚が全く違っています。西の水平線に富士山の姿が見えます。これは風が相当強くなっていることを示しているのです。
方向転換もタック(風上への方向転換)の時は速度が落ちて転換しきれなかったり、ジャイブ(風下への方向転換)の時はバランスを崩しやすいということで一苦労です。とうとうジャイブの時、沈をしてしまいました。ドライスーツを着ていても矢張り冬の海は冷たかったのです。一番慌てたのはその着方が適当でなかったせいか、それが浮き袋のようになってしまったことです。身体の動きが拘束されてしまい、センターボードに乗り上がるのに身体のばねが使えなくなってしまいました。これは何度も沈したら大変なことになるなと悟ったのでした。
しかしとうとう冬の海にヨットを走らせることが出来ました。2時間と少しの短い間でしたが、遠い富士山の方から吹き付ける冬の風に抗して、なんとか操ることが出来ました。夏と随分勝手が違い、結構手こずるということも判りました。まあ久しぶりのセイリングということもあるでしょうが……。冬の海を征服したなぞとはとてもおこがましくて言えません。お友達になったという所へも行っていません。しかし昨年は試みなかった冬のセイリング、今年はやりました。一歩前進です。

 
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│ FORUM2-7 第67号 12月24日(火) │
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 Merry Christmas & Happy New Year!

 外国でよくやりとりされているグリーティングカードで一番使われるのが、このクリスマスと新年を祝うものです。日本の年賀状に似た感じです。
今日はクリスマス・イヴ。皆さんのおうちでは何かやりますか?
 昔、下の娘がこの日友達と教会に行って、帰ってから「私キリスト教になったから」と言い出したことがありました。その気持ちは暫く続いて、外国で観光地にもなっている教会を訪れると、「私キリスト教だから」と矢張り涼しい顔をして言っていました。
現在彼女の信仰がどうなっているのかはっきり知りませんが、我が家のクリスマスは、娘達がサンタクロースの正体を知ってしまった時に終わってしまったような気がします。
我が家にサンタが存在していたのは結構長くて、下の娘が来年中学だという小学校6年生の時に、事の真実を明かすことになりました。日本の学校でその存在を巡って論争が起こり、実在を固く信じている娘の旗色が悪そうな話を聞いて、親がその試合から召還させようと考えた為です。日本人学校では我が家のような家が他に幾つかあって負けずにすんでいたのです。
しかしそんな頃まで実在すると思い込ますのにはそれなりの苦労が要りました。例えばその前年のイヴはウイーンに着いた日でしたが、その前日から家族はずっと一緒で、片時も離れることが出来なかったのです。サウジで買えるような物は決まっていて、ウイーンでサンタがそういうものを持ってきたのではサンタが誰であるか言っているようなものです。クリスマスから新年にかけてオーストリアでは休業してしまう店が多く、とうとう娘達が寝込む時間までプレゼントを買うことは出来ませんでした。
 ホテルの一階にあった店に見当を付けていたものがありましたので、彼女達が床に就いた後そこへ行ってみると、シャッターが下りています。フロントに頼んでも、別経営で鍵も持っていないとのこと。それで私は凍り付く夜の街へプレゼントを探しに出たのです。店は悉く閉まっています。ドイツとかオーストリアはこういう点は全く徹底しています。しかし私には一縷の望みがありました。それは鉄道の駅です。駅の売店だけはかなり遅くまで開いているのです。果たして、がらんとした構内を忙しそうな大人達が行き交う西駅の片隅に小さな店が開いていて、そこに土産物が並んでいたのです。
翌朝、いつ買ったんだろうと不思議そうに私の顔を見つめる長女の横で、次女は「絶対に来るって思っていた。だってサンタさんはジェッダでも日本でも何処へでも来れるんだから」と確信を持って言いました。
長女の小さい頃、私の勤めていた学校のスキー教室が毎年イヴの夜から出発ということで、私は家に居ませんでした。プレゼントは昼間のうちに私が買って来て、夜中に妻が娘達の枕元に置きました。お父さんは居ないしお母さんはずっと娘達と一緒に居たということで、矢張りサンタがくれたとしか考えられないということになりました。上の子もかなり遅くまでサンタの存在を信じていたのです。
12月になると新聞に子供の玩具のチラシが入っていて、それをよれよれになるまで持ってサンタにどれを頼もうかしらと子供達が相談しています。そういう姿を横目で見ながら、親はなんとかしてやろうと幸せな気分になるのでした。
サンタの正体が判ってしまってからは、もうサンタは来なくなってしまいました。それは娘にとっても親にとっても寂しいことです。サンタと共に喜んだ楽しい思い出が、次の新しい喜びを見つけだす為の種火として心の奥で静かに燃え続けることを願っています。
新しい年をむかえる時は大体に於いて何かしらの感動があるものですが、或る映画の1シーンも私の心に残っている一つです。
それはドキュメントタッチの戦争映画の一場面です。壮烈な戦闘で泥と硝煙で真っ黒に汚れ、疲労の極にある連合軍の兵士達の頭上に、新年を告げる花火が開くのです。真夜中の空に打ち上げられる花火。それをぼんやり眺めながら、兵士達はハッピー・ニューイヤー、来年こそは戦争が終わりますようにと思います。
世界中が戦火にみまわれていたその時、泥だらけの塹壕の中で抱いていた彼らの気持ちは多分人類全体の気持ちと合致していたのだと思います。自分達の幸福と人類の幸福が一致していたのです。平和な世界の到来を心から望んでいたのです。
そういう幸福な新年を、平和と自己実現の新年を皆様方が持てますことをお祈りします。良いお年をお迎えください。


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